「ヒュムネン」「テレムジーク」など


 今年でこの講習会に参加するのも3回目となりすっかり常連となってしまいましたが、それでもシュトックハウゼン作品の気付かなかった側面を数多く発見しますし、それは他の作曲家の作品の聴取や演奏にも大きな影響を及ぼします。もっと下世話なことも書けば、当然顔なじみ(悪友?)も増えますし、スタッフから各受講生への説明も「あなたは何回も来てるから説明する事はありません」と言われて書類を渡されてすぐ終わり、といった感じです。
 
 今年の講習会での演奏会でも当然の様にシュトックハウゼンの電子音楽の名作の数々が演奏されました。ここではまず、生楽器を伴わない純粋な電子音楽について書いていきたいと思います。事前にアナウンスされていた「水曜日の別れ」「ヒュムネン」に加えて、開講式で「テレムジーク」、ステューデント・コンサートの余白の時間を利用して「少年の歌」がそれぞれ演奏されました。事前にアナウンスされていた「オクトフォニー」は電子音のみのヴァージョンではなく、トロンボーン、トランペット、シンセサイザーの各独奏者を伴った特別なヴァージョンで演奏されましたが、この演奏に関しては別の機会に書く予定です。
 
 さて、まず「水曜日の別れ」から。
 これは厳密には電子音楽というよりミュージック・コンクレートに分類すべき音楽ですが、この作品は「火曜日」の第2幕の電子音楽「オクトフォニー」で開発された特殊な配置にセットされた8組のスピーカーから再生されます。聴衆を取り囲むように配置された会場の四隅のスピーカーのそれぞれの上方にさらに4つのスピーカーが配置される、つまり8組のスピーカーがキューブ型に配置される(これがオクトフォニーという名称の由来となっています)のですが、このことによって音響が前後左右だけでなく上下に運動させることが可能になった訳です。
 「水曜日の別れ」では子供達の遊ぶ声、鳥の鳴き声などの様々な日常的な物音が複雑に組み合わされますが、「オクトフォニー」や「コンタクテ」などのような緊張感に満ちた音楽とはキャラクターが全く異なり、ブライアン・イーノすら想起させる白昼夢的で叙情的な印象をもたらします。この作品は使用する音素材によって細かく11の部分に分ける事が出来ますが、それぞれの部分で使用するスピーカー群を変化させる事で音の立体感が突然変化する面白い効果を挙げていました。当然ながらこれは2チャンネルにミックスされたCDでは決して体験できません。左右だけでなく前後の動きも取り入れた4チャンネルの音響ですでに2チャンネルの音響とはまったく違う次元をもたらすのに、そこにさらに上下の広がりが加わるのです。右下方で水のぴちゃぴちゃした音が鳴り、左上方で鳥の鳴き声がするなどという技はオクトフォニーだからこそ可能なことなのです。もちろんこうした例は最も説明しやすい音響を取り上げたまでで、実際はもっと繊細かつ複雑な音響の合成が行われていて、半世紀間に渡るシュトックハウゼンの電子音楽制作における豊富な経験が存分に生かされた極めて洗練された極めて美しい響きを醸し出していました。
 
 さて、昨年に引き続いて今年も運良く「少年の歌」を聴く事が出来ました。前回は会場のほぼ中央で聴いたのに対して、今回は左後方のスピーカーにかなり近い席で聴く事となりました。意図的にそこを選んだ訳でなく、単に狙っていた中央付近の席に座れなかっただけなのですが、これが思わぬ発見を生みました。4チャンネルのスピーカーから再生される音楽ならすべてのスピーカーからの音が等しく聴こえる中央付近の席がベスト・ポジションだと思いがちですが(実際シュトックハウゼンも客席中央にミキサーをセットしその場所でバランスを確認しています)、左後方のスピーカーの音がかなり強く聴こえる席で聴く「少年の歌」も予想以上に楽しめたのです。このスピーカーの音に比べて残り3つのスピーカーの音は当然ながらやや弱く、そして多少の距離感を伴って聴こえて来るのですが、これが独特の立体的な効果を生み、音楽がそれまでと違う生命を吹き込まれたかのように、非常に生き生きと感じられたのです。これは音響の空間移動の作曲上の計画がそれだけ緻密であったことを証明していますが、この作品はそうした空間移動の概念を積極的に作曲に取り入れたシュトックハウゼンにとって(そして音楽史上にも前例のない──厳密に言えばバンダを使ったり特定の教会の建築構造を利用して様々な方向から音響が聴こえる例は少なからずありますが、その音楽構造において「特殊な効果」以上の役割を果たしているものはないと言って良いと思います)はじめての作品である訳ですから、シュトックハウゼンの恐るべき才能をここにも感じる事が出来ます。
 昨年のレポートにも書いたのですが、この作品は聴けば聴くほど、電子音楽ではなくセリーを使った合唱曲の名曲のように聴こえて来ます。始めの内は電子音という聴きなれない音によるショック感を主に感じていたのが、その未知の音に親しむにつれて音楽そのものの素晴らしさが姿をあらわにする感じです。音の奇妙さばかりを狙って音楽の内容がないような(ダジャレではありません。。)電子音楽が次々とその貧弱な正体をあらわす中、この作品は初演後半世紀を経てますます輝きを増すように感じられます。
 
 前述の通り、開講式では「テレムジーク」が演奏されました。この作品は昨年も演奏されたのですが、こちらの都合で残念ながら聞き逃してしまったので、今回の再演は非常に嬉しかったです。
 昨年聴いた人の話によると音響が必ずしもベストではなかったようで(いくらシュトックハウゼン監修と言えども予算やその他の事情で機材のセッティングに関してある程度の妥協をしなくてはならないこともあるのです。。。特に昨年は「金曜日」の特殊なスピーカー配置に莫大な予算が割かれたことが予想されます)、人によっては思ったほどすごい作品じゃなかった、という人もいたようですが(といってもかなり高い次元での不満です)、今回はその悪評(?)を覆す会心の出来だったようです。前回との比較は私には出来ませんが、今回聴いたその音響は間違いなく素晴らしかったです。この作品は一歩間違えると単に耳障りになるだけの高周波が多用されていますが、そうした音もきれいに再生されていましたし、もっとも印象的だったのが音響の「ぶよぶよ感」(笑)と呼びたくなる独特な立体感と音の肌触りです。「テレムジーク」特有のこの独特の音響感覚は、ひょっとすると、いつものケルンの電子音楽スタジオとは全く異なる、日本のNHKの電子音楽スタジオで制作されたというのも関係しているのかもしれません。
 
 ところで、シュトックハウゼンはこの「テレムジーク」の5チャンネルのマスターテープを長らく入手する事が出来ませんでした。原因は制作に使用したレコーダーとテープが6チャンネルという特殊な仕様であったため、このレコーダーを使わないとこのテープを再生できないのにも関わらず、このレコーダーが故障のため使用できなかったからです。そのため長い間シュトックハウゼンはこの作品の上演を事前に作成していたステレオにミックスしたコピーを使う事で妥協する他なかったのです。しかし、1964年の初演からようやく30年たって、「テレムジーク」の制作にも協力した佐藤茂氏がこのレコーダーの廃棄寸前の段階でこれを修理し、一般的な8チャンネルのテープにコピーしてシュトックハウゼンのもとへ送付したことによってようやくオリジナルの5チャンネルの形で上演出来るようになったという感動的な話があります(実はこの少し前の1988年に一度5チャンネルのテープがNHKから送付されていたのですが、完全にレコーダーが修理出来ていない段階でコピーが行われたため音質がかなりひどくて全く使い物にならず、シュトックハウゼンが大きく落胆した事がCDの解説に記されています)。佐藤氏のこの尽力がなければ永遠にオリジナルの形で演奏できなかった訳ですから、彼はテレムジークの「命の恩人」と言ってもいいでしょう。
 
 さて、今年のコンサートの一つの大きな目玉であった「ヒュムネン」についてです。間に休憩を挟むものの総演奏時間2時間という超大作にして、数多くのシュトックハウゼン作品の中でもトップクラスのクオリティを持つ大傑作の演奏ですから、当然多くの受講生がこの作品の演奏を楽しみにしていました。今年のキュルテンは例年の涼しい気候と異なり、かなり暑かったため演奏の行われた会場も文字通り熱気につつまれていましたが(汗)、この日の演奏会の雰囲気は明らかに他の日の演奏会の雰囲気とは異なっていたようにも感じました。かつて、ソリスト付きヴァージョンで何度も演奏に参加したヨハネス・フリッチュ氏の姿も客席に見られましたし、講習会の受講生以外の聴衆もかなり多かったようです。
 この作品は一般的に世界のさまざまな国歌のコラージュと単純に受け止められがちですが、実際には国歌以外にも、短波ラジオのノイズ、電子的に合成された「抽象的な」音響、スタジオでの会話、日常生活で耳にするさまざまな「聴きなれた」音など、いわば「世界中のすべての音響」が等価に扱われています。そしてシュトックハウゼンはその雑多ともいえる膨大な種類の音響を、極めて複雑に互いに変容、変調させ4チャンネルの世界に再構成していますが、その音楽思考の論理的な厳密さと多様さはバッハ、ベートーヴェン、シェーンベルクらに代表される「ドイツ的」音楽観に基づくものと言えるかもしれません。また、古くから音楽などの芸術作品は自然界の模倣であるべきだという考えがありますが(メシアンの「鳥のカタログ」はその最も分かりやすい例です)、「ヒュムネン」はシュトックハウゼンによるそうした要請へのひとつの回答であると言えるかもしれません。
 この作品の音楽史における重要さは例えばベートーヴェンの第九交響曲と同じであると言い切れるくらいですが、それは実際の4チャンネルの音響を聴いて改めてしみじみと実感しました。この作品の作曲技法は、12の半音階の音高を等価に扱ったシェーンベルクの12音技法をリズムや音の強度に応用したトータル・セリエリズムをさらに拡大し、地球上の全音響を等価に扱う「超セリー技法」であると表現したくなる誘惑にかられますが、ここでセリエリズムについて少し考えてみたいと思います。音楽の専門家、愛好家を問わず多くの人々の間で、シェーンベルクの12音技法に始まるセリー主義は作曲者から自由を奪い束縛する悪しき作曲技法と思われているきらいがあり、実際、特に1970年代以降の数多くの作曲者の作風(新ロマン主義、ミニマリズムなど)には少なからずこの「誤解されたセリー音楽」への反発の反映が感じられますが、少なくともシュトックハウゼンにとってのセリーは作曲者を縛るものではなく、音楽素材を自在に操るための便利な道具に過ぎないのです。それまで作曲者が直感的に感じていたものをセリー(列)という客観的なものに置き換えることによってあらゆる音楽素材をあらゆる方法で変容させる事ができますし、そもそもセリーの各要素として、たった一つの(点としての)音からより大きな音楽素材(例えば短いメロディーなど)などまでどんなものでも定義する事が可能ですし、定義の仕方そのものにもあらゆる選択肢が開かれている訳ですから、作曲者のイマジネーション次第でどんな音楽でも作曲する事が出来るのです。ある一つのセリーを作ってしまうとあとは自動機械のように曲が出来上がる、などというのも可能ですし、ブーレーズの「構造 I」では実際それに近い作曲手法がとられていますが(これがセリー技法の終着点と誤解している人も多いようです)、これはあくまでも自由と柔軟性に満ちたセリー技法のたった一つの側面に過ぎず、「ヒュムネン」のようにセリーの概念をかなり自由に扱った作品もセリー音楽の範疇にあるといえるのです。
 
 作曲技法の話はこれくらいにしておいて、実際に聴いた感想を書いていきましょう。とはいえ、この長大な作品の何を書いていいのか考えると途方に暮れてしまいますが、とにかく何から何まで圧倒的であったということは断言出来ます。講習会のために渡独する前にこの大作のCDを何度も繰り返し聴いて細部まで覚えてしまう程になりましたが、それでも実際の4チャンネルの音響を聴くと、全く新しい曲のように新鮮に感じられました。言葉に窮するくらい素晴らしい音楽であったとしか書けないほどの大きな衝撃を受け、音楽の莫大な情報量のために何を書いて良いのか見当も付かない自分が情けなくなりますが、一つだけ書くとすればこの作品の後半にクラスター風の強烈な音響のグリッサンドが延々と繰り返される所がありますが、この一歩間違えるとただうるさくなるだけの音響が、実に美しかった事です。
 同じ電子音楽でも、近年「耳痛系」という言葉が流通していることが象徴するように、聴覚に「物理的に」過激な刺激を与える程の大音量で超低周波や超高周波を極端に強調した音楽も一定の評価を得ていますが、そうした音楽の良し悪しは別として、シュトックハウゼンの電子音楽にはそのような要素はないし、そうした音響は好んでいないようです。シュトックハウゼンの作品は非常に大きなダイナミック・レンジを持っているのにもかかわらず、どんなに大音量であっても耳が痛くなったり、音楽を聴き終わった後一時的に難聴になったりするほどの音量にはならないのです(そうなる寸前のすれすれのラインを狙う事もありますが決して一線を超えません)。もし、シュトックハウゼンの(公認のマスタリングによる)CDを聴いてそういう印象を受けたとしたら、再生装置がシュトックハウゼンの求める音響をうまく再現できないために音が歪んでいるだけです。
 どんなに大音量でも、やっと聴こえる程の微細な音でもシュトックハウゼンは自分の作曲したすべての音がクリアーに聴き取られる事を望んでいます。大音量の過激でノイジーな音響に身をまかせて一種のトランス状態に陥る、といった聴取方法はシュトックハウゼン作品の聴取の本来の姿ではないのです。
 
 この大作の演奏が終わって、文字通り熱い拍手と熱狂が会場を包みましたが、やはりこの日の聴衆の感動の度合いはかなり高かったように感じます。電子音楽の上演ですから演奏者は誰もいません。客席は真っ暗になりシュトックハウゼンが客席中央のミキサーの前に座り、その横にいるブライアンがテープを再生させてスピーカーから音が流れているだけです。そして聴衆はその音に深い感銘を受けるのです。伝統的なコンサートの雰囲気と比較するとなんと奇妙な光景でしょう!しかし、そこで得られた感動は人生の中でそう何度も体験出来るものではないくらいに大きなものでした。
 
 余談ですが、このコンサートの次の日に、あるドイツ人の受講生が嬉しそうな顔をして何かCDを持って歩いていました。私は彼にそのCDについて尋ねると、持っていたCDは「ヒュムネン」の4枚組のCDで、昨晩生まれて初めてその作品に接して大きな感銘を受けたから記念に今売店で買って来た、と言うのです。
 わざわざ時間を割いてシュトックハウゼン講習会に来る程の人が「ヒュムネン」のような「古典的名作」をそれまでCDですら聴いた事がなかったというのにやや驚愕しつつも(でもそのような人にこそこうした体験をして欲しいといえます)、初めてその作品を聴いてしかもそれが作曲者の監修した万全の音響によるライヴだったことの彼の至福と感動は私も理解出来ましたし、彼の本当に嬉しそうな顔を見ているだけで、本当にこの作品に感動したのだな、ということが手に取るように感じる事ができ、私まで幸福な気分になりました。
 
 ここ数年シュトックハウゼンはヨーロッパの各地でこの「ヒュムネン」を何度も上演していますが(来年2003年の1月にもケルンで演奏されますが、誰か日本にも呼んでくれないものでしょうか)、この作品が聴衆にもたらす至福をシュトックハウゼン自身も感じているのではないでしょうか?
 特に近年、テロだの(シュトックハウゼンもあの事件に対する間接的な被害者と言えましょう)、それに対する報復だの、イラクを攻撃するだの、と平和希求のムードとは程遠い暗いムードが世界中を覆っていますが、シュトックハウゼン流の世界平和への願い(それが直接戦争を抑止するものではもちろんありえません)がこうした一連の上演につながっているのかもしれません。

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