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 ピアニストのエレン・コルヴァー、オーボエ奏者のキャサリン・ミリケンという二人の女性講師によるコンサートではシュトックハウゼンの初期の作品から近作に至るまでの幅広いレパートリーが演奏されました。
 実際のプログラムではピアノ作品とオーボエ作品が交互に演奏されましたが、ここでは演奏者ごとに感想を書きたいと思います。
 
 まずはキャシー・ミリケンによるオーボエ曲の演奏から。
 彼女が始めに演奏したのはシュトックハウゼンの独奏曲の定番と言える1977年に作曲された「友情に In Freundschaft 」です。この曲は単音しか出せない楽器の独奏で、対位法的なテクスチュアを実現し(シュトックハウゼンは「ホリゾンタル・ポリフォニー」と呼んでいます)、それぞれのレイヤー(声部)の間でフォーミュラを少しずつ交換していくという、聴取に際して極度な集中力を要する作品ですが(勘の鋭い人なら、この「交換」プロセスに最初期の「クロイツシュピール」との関連性を認めるでしょう)、その作品の構造を視覚的に補うために演奏者は楽器を上下左右の様々な方向に向けます。
 この動きはしばしば急激なものとなるので(0.5秒くらいの間に左下から右上に動かすなど)、単に書かれている音符を演奏するだけでも難しいこの曲の演奏をさらに困難にしますが、そうした高度な作曲者の要求にかなう素晴らしい演奏を披露してくれました。
 
 次に演奏されたのが、この日のプログラムの中でもっとも近作にあたる「オーボエ(1995/96作曲)」でした。
 この作品は「光」の「水曜日」の「オルケスター・フィナリステン Orchester-Finalisten 」という部分の抜粋で、オーボエ奏者と電子音楽によって演奏されます。
 5分あまりの短い作品でしたがこの日のプログラムで最も印象的な作品でした。
 この作品のオーボエパートは通常の五線の下にグラフで指示された異様に細かいダイナミクスの変化、1小節ごとに細かく変わるテンポ、様々なジェスチャーなど、相変わらずの超絶技巧を要する難曲ですが、そうした困難を全く感じさせないエレガントな演奏でした。
 白昼夢のような、シンプルながらも神秘的な照明も素晴らしかったです。
 
 しかし何といってもこの曲を大きく特徴付けているのはオーボエと同時に演奏される電子音楽です。
 正確には電子音楽というよりはミュージック・コンクレートというのがより適切かもしれませんが、1950年代から電子音楽の様々な可能性を追求してきたシュトックハウゼンの辿り着いた究極の美がここに存在しています。電子音楽とオーボエの音は相対するものとして存在するのではなく、長年の友達のように親しく寄り添うように調和が取れていました。
 この部分を含む「オルケスター・フィナリステン」の演奏がStockhausen Verlagから発売されています(全集52)ので、この天国的な美しさをたたえたこの音楽を未体験の方は是非ともお聞き下さい。
 
 話は講習会からずれますが、シュトックハウゼンは近年、信じられないような美しい作品を次々と作曲しています。「オルケスター・フィナリステン」と同じく「水曜日」の冒頭で演奏される「世界議会 Welt-Parlament (1995年作曲 全集51)」や、「光」の完結作「日曜日」の「光−水 Lichter-Wasser (1998-99年作曲 全集58)」などの音響の美しさを「ヘリコプター弦楽四重奏曲(1992/93年作曲 全集53)」の豪快な音響しか知らない人が体験すると大きなショックを受けるのではないでしょうか?
 

 キャシー・ミリケンはあともう一曲「螺旋 Spiral」を演奏しました。

 この1968年に作曲された作品は、一人のソロイスト(どんな楽器、声を使っても良い)が短波ラジオを使いながら演奏する作品で、特殊な記号で記譜された楽譜に基づき、短波ラジオから聴こえる音を演奏者が楽器や声を使って模倣、変形していく非常に特殊な演奏能力を要する作品です。
 彼女はこの作品を演奏するためにオーボエに加えてディジリドゥーと声、ディレイなどの様々なエフェクター(フット・コントローラーで操作)を使っていました。

 この曲やその他の短波ラジオを使った一連の作品は、一般にはどちらかと言うと短波ラジオを操作することによって生じるコラージュ的効果や電子音楽風でノイジーな音響の方ばかりが注目されているように私は感じるのですが、実際はそうしたサウンドは演奏のきっかけと音響的装飾としての役割に過ぎず、むしろ演奏者がそのサウンドをどのように変形していくかというプロセスに耳を傾けるべきだと感じました。
 短波ラジオから流れてくる様々な日常的な音を演奏者が全く耳なれない抽象的な音響に変容させる、という点では以前にも触れた「少年の歌」「コンタクテ」「テレムジーク」「ヒュムネン」などと考え方は同じですが、この「螺旋」では、そのプロセスがソロイストによってリアルタイムで実現されるため、演奏者の感性によって演奏に対する印象が大きく変わるところが非常に魅力的です。
 それにも関わらず、変形のプロセス自体はきちんと記譜されているのでどの演奏を聴いてもシュトックハウゼンの作品である、という作品の同一性が保たれているところも興味深いです。
 
 それで、キャシー・ミリケンの演奏ですが、短波ラジオによるノイジーな音響、というイメージからは最も遠い、エレガントでしばしばユーモアも感じさせる軽やかな演奏でした。
 
 怖ーいゲンダイオンガクの最も怖ーい親分シュトックハウゼン、というイメージを持っている方からは想像もつかないかもしれませんが、セミナー中の演奏会場の客席ではしばしば笑い声が聴こえていました。
 作品の無理解による嘲笑ではなく、作品のユーモラスなところに自然に反応しての好意的な笑い声です。
 
 「螺旋」の楽譜の中には「螺旋記号 Spiral-Zeichen」と呼ばれる記号を使った部分があり、ここでは直前の(音楽的)イヴェントを何度か繰り返すのですが、その際に全ての音楽的パラメーターをそれまでに演奏した楽器や声のテクニックを超えるまで、もしくは楽器や声のテクニックの「限界を超越する」までに変化させることが求められています(注1)
 この部分では(楽器や声の限界を超越した延長線上としての)視覚的、あるいは演劇的なイヴェントを使うこともできますが、今回の演奏ではずっと演奏をしていた場所から離れて、ちょっとしたダンス(?)のようなことをやっていました。
 
 彼女はこの「螺旋」をシュトックハウゼン全集CD(45巻)に録音していますが、「人間シンセサイザー??」ミヒャエル・フェッターが、記譜されたすべての部分を超絶的なヴォイス・テクニックを使って演奏した2時間に及ぶヴァージョン(全集46)も天才的で変態的な仕上がりで、これを聴かずに「螺旋」を語るべからず、と個人的には思っています(注2)
 (エレン・コルヴァーによるピアノ曲の演奏についてはまた次回)続きを読む

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[注1]
 この独特な演奏指示の表現方法は、「螺旋」の数カ月前に作曲された「7つの日より」における幾分神秘的な雰囲気を持つ詩のようなテキストによる演奏指示からの影響だと思われます。
 ちなみに、余り知られていないことですが、一連の短波ラジオを使った作品群「短波」「螺旋」「ポーレ」「EXPO」と「7つの日より」と「来るべき時のために」の2つの直感音楽の作品集は同時期に並行して作曲されています。

 1968年初頭「短波」
 1968年5月「7つの日より」
 1968年9月「螺旋」
 1968年8月〜1970年7月「来るべき時のために」
 1969/1970年「ポーレ」「EXPO」
 
 一連の「短波もの」と直感音楽との間には、作曲時期が同時期である、という以上の作曲上の共通点も存在します。
 直感音楽で使われているテキストをよく読んでみると、「宇宙のリズムで演奏せよ」などといったちょっと怪し気(?)な趣を持った表現がしばしば見られるにも関わらず、音楽的イヴェントをどのように変容させていくか、という点においては「短波もの」とそれほど大きく違いがある訳ではないことが分かります。
 「7つの日より」の全集CD(第14巻)の解説に、シュトックハウゼン自身がテキストからどのように演奏の内容を決定していくか、というプロセスが書かれていますが、非常に具体的且つ論理的に演奏内容を決定していることが良く理解できます。
 つまり、「短波もの」と直感音楽の間には演奏のきっかけとして短波ラジオから聴こえる音響を使うか、「超意識」が感じるものに従うか(心を一種のラジオとして捉える)という違いはあるものの、そのきっかけとして得た音楽的イヴェントの変形プロセスの考え方には共通する部分が多く、「直感音楽」という概念はその表面的な語感に反して、実は非常に論理的な音楽であり、1950年代以来のセリー的な思考の延長線上に位置すると考えることもできるものなのです。

 なお、直感音楽第2集の「来るべき時のために」と、現在まで続くフォルメル・コンポジションによる最初の作品「マントラ」(1970年5月〜8月作曲)の作曲時期が重なっているという事実も非常に興味深いです。
 
[注2]
 「光」の「水曜日」の最終場面「ミヒャエリオン」では短波ラジオを伴った歌手が登場しますが、このパートをミヒャエル・フェッターがこの場面の初演の際に受け持った様です。(音楽自体は私は未聴です。CD化もされていません。)