SECHS

 「シリウス」以外での今年度のセミナーの大きな目玉は「シリウス」とならぶシュトックハウゼン70年代の大作「祈り」の上演でした。この「祈り」という作品は1〜2人のダンサー=マイムとオーケストラのための一時間をこす大作で、本セミナーでの上演ではオーケストラ部分はテープでの演奏でした。
 こういう風に書くと「カラオケ風簡易版」というようなあまり良くない印象を持つ方がいらっしゃるかもしれませんし、私も当初そうした気持ちを持っていなかった訳でもなかったのですが、実際にはそうした気持ちを裏切る印象深いステージで大きな感銘を受けました。
 ダンサー=マイム、プラス、テープという演奏形態はあり得ても、ダンサー=マイムを省略したオーケストラのみの演奏は決してあり得ないな、という印象を持ったほど(実際そのようです)、ダンサー=マイムがこの作品において果たす役割は非常に大きいのです。当然、現在発売されている「祈り」のCDでダンサー=マイムの動きを見ることはできないわけで、私はこの演奏に出会うまではCDに収録されていた「音」の部分しか「聴いていなかった」のですが、実演でダンサー=マイムのジェスチャーを「聴く」ことではじめてこの作品のすべてを把握し、この作品の新たな魅力に接することができたのです。
 
 ダンサー=マイムのジェスチャーの全てはオーケストラの演奏する音の様々な属性と厳密に関係付けられています。例えば手の高さは音高、手の拡げ方はリズム、手の前後の位置がダイナミクスなどというように。全ての手のジェスチャーは世界各地の様々な祈りのポーズに由来していて、それが曲名の「イノリ」の由来ともなっています。
 「祈り」の演奏の前には「HUについてのレクチャー」という講議としての作品(?)が演奏(?)されました。この作品は「祈り」の楽曲の構造やダンサー=マイムのジェスチャーと音楽との厳密な結びつきなどについて、事細かに歌、マイム、巨大なパネルなどを駆使して説明するものですが、「祈り」本体の演奏時間(70分)を上回る2時間近くを要する長大な説明を聞いた後で、この「祈り」の演奏を聴くとその作曲意図が非常に明確に分かりました。(「祈り」のジェスチャーと音楽との関係についての詳細は前述の「HUについてのレクチャー Lecture on HU」の楽譜[Stockhausen Verlag]を御覧下さい。豊富な写真、譜例なども掲載されています。)
 
 オーケストラの音をジェスチャーで表現しているとも言えるし、ジェスチャーがオーケストラの音楽に反映しているとも言えるし、ともかくジェスチャーが音楽の1パートとして機能していてオーケストラの音楽と完全に一体化しているという驚くべき作品である訳です。
 先に述べたように、ジェスチャーは音楽と厳密に関係付けられていて、「動きのセリー化」とでも表現できるのでしょうが、その素材自体が祈りのポーズから由来しているために、そのセリー的に(つまり客観的に)設定されたはずのジェスチャーが不思議と宗教的な色合いをもって見えてくるのが非常に興味深く感じられました。(補注参照)

 この驚くべきジェスチャーの効果は実際に見て頂くしかないので、お伝えできないのが残念ですが、オーケストラの奏でる音楽自体も非常に魅力的であります。
 特に、曲の冒頭では単音が延々と繰り返されたりするので、一見単調に感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、極めて注意深く耳をすますと極めて細かい単位(16分音符など)で1音1音オーケストレーションに微妙な変化が付けられているのが聞き取れるかと思います。また、しばしば小節ごと(ときには1小節に2回)テンポが細かく変動するので(変拍子ならぬ変テンポ?)リズムがわずかに揺らぐように感じられるところも興味深いです。
 また「エコー」、「ポーズ」という部分では音楽の流れが一時的に止まり、文字どおり音の余韻を楽しむような曲想になりますが、ここで静かに鳴り響くリンの音色は日本的な美すら感じさせます。ちなみにこの部分ではダンサー=マイムが耳に手を当てたり(エコー)、腕を組んで横を向いたり(ポーズ)して、音楽的注意を喚起させます。

 この作品は単音のリズム反復から始まり、ディナミーク、メロディー、和声、対位法と音楽事象がだんだん複雑になっていくのですが、ダンサー=マイムの動きもこれに応じてだんだんと複雑になっていきます。しかし、この「だんだんと」というのが半端な単位ではなく、冒頭から「対位法」と名付けられた部分のクライマックス(ここでダンサー=マイムは「HU」と叫ぶ)に到達するまで約1時間かかります。クライマックスの直前の音楽の展開は非常にダイナミックなのですが、冒頭の音楽の展開は今にも音楽が止まりそうなほど極めて遅く、この音楽をより良く体験するためには極度の集中力が要求されます。ダンサー=マイムは、この集中を助け、聴衆の音楽的注意を正しい方向に導いていく役割も担っていているのですが、単なる道しるべでなく音楽的に重要な意味を持った1パートとして機能していることは先に述べた通りです。(ダンサー=マイムのジェスチャーは五線譜上に楽譜として記譜されています。「対位法」の部分では最大3段の五線に記譜され、それぞれが左手、右手、頭の動きを表しています)

 シュトックハウゼンの音楽において、演奏者の動きや、「祈り」のダンサー=マイムのパートのような視覚的な要素はますます重要となってきていますが、これらの要素は音楽的要素と深い結びつきを持っていてお互いを切り離すのはほとんど不可能です。でも考えてみれば、もともと音楽は舞踏や宗教的感情のような様々な要素と不可分な関係にあった訳ですから、シュトックハウゼンのこうした傾向は全く自然なものだと思います。
 それにしてもこの「祈り」という日本語のタイトルの作品、日本で多くの部分が作曲された「マントラ」、日本滞在中に構想された「光」の連作など、シュトックハウゼンの主要作で日本にちなんだものがいくつかあるのに、日本でシュトックハウゼンの作品をめったに聴くことができない現状は非常に残念です。
 「祈り」なら、しかるべき演奏者さえそろえば日本のコンサートホールで演奏することは決して難しくありません。いくつかのジェスチャーやリンの音色など日本人の多くが共感できる要素を持つこの作品が日本で演奏されればシュトックハウゼンの日本での評価も大きく変わるのにな、と思いました。(まだ続くのです)


補注

 逆に言うと「祈りのポーズ」という私達にとって親しみ深い要素をセリエルに変容することで、聴衆はこの親しみ安い要素を「きっかけ」にして、より抽象的な音楽構造へ聴き入ることを容易にしているともいえます。
 こうした試みはすでに「テレムジーク」や「ヒュムネン」で行われていて、ここでは世界各地の民族音楽や国歌といった多くの人に親しみのある音楽が素材として取り上げられ、セリエルに変容されます。
 つまりシュトックハウゼンは深く抽象的な構造へ入り込むための「親しみやすいきっかけ」を作曲の素材としてうまく使っているといえますが、こうした傾向はさらに初期の「少年の歌」や「コンタクテ」にも見られます。
 ここでは人声や楽器音と電子音を結ぶある種の音色のスケールのようなものを作り、人声や楽器音といった親しみ深い要素をきっかけとして、作曲当時まだ一般的とはいえなかった電子音というものや、作曲技法としての「音色の変容」に聴衆の注意を正しい方向に向けさせる試みが見られます。
 さらにシュトックハウゼンが現在使っている「フォルメル・コンポジション」という作曲技法について考えてみると、「メロディー(=フォーミュラ)」という音楽的に最も親しみ易い要素がセリエルに変容されます。
 以上の話をまとめると、初期から現在までシュトックハウゼンの作曲姿勢に一貫しているのは様々な要素の「セリエルな変容」であり、時期によって「何を」変容させるのか、ということだけが違っているということです。
 ごく初期においては音高、リズムなど極めて抽象的な音楽素材がセリエルに変容されていたのが(「点の音楽」)、次第に「国歌」「祈りのジェスチャー」「メロディー」など具体的で親しみやすいものが素材としてセリエルに用いられるようになり、これらが音楽の深層へ入り込むための鍵として機能している訳です。

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