October 18, 2007
バレンボイムの「モーゼとアロン」
本日はベルリン国立歌劇場の「モーゼとアロン」を東京文化会館で見てきました。
私にとって非常に重要な作曲家であるシェーンベルクの傑作オペラですが、とにかく上演困難な演目で、日本で次いつ見られるのか分からないこの作品をバレンボイムの指揮で見られる、ということで大枚をはたいて駆けつけてみました。
おそらく一番の難関が複雑なコーラス・パートのリハーサルですが、アマチュア・コーラス並みに2年かけて準備したそうで、ただ立って歌うだけでも大変であろう至難な部分も複雑な演技を伴って余裕すら感じさせる演奏を披露していました。CDの録音などで聴いてもコーラス・パートが混濁している事が多いので全く期待していませんでしたが、ライヴでこれだけ出来れば上等でしょう。
オーケストラも若干の事故や集中力の途切れそうな箇所があったものの、基本的には非常に丁寧に仕上げられていて歌手との音量や音色のバランスもうまく取れていました。もっともシェーンベルクの室内楽を思わせる緻密なオーケストレーションが素晴らしいというのもありますし、ケーゲルの演奏にみられる異常な集中力と比べるとかなり「ゆるい」ともいえますが。
演出はモーゼ、アロンも含むすべての歌手がマトリックスのエージェント・スミスを思わせる黒いスーツとネクタイ、サングラスという衣装で統一され、黄金の仔牛も巨大な「エージェント・スミス」像(但し何故か首が取れている)に置き換えられていました。
モーゼの起こす軌跡も、2幕の乱痴気騒ぎもすべて象徴的に置き換えられ、ステージとしては非常にストイックなものでしたが、民衆はアロンの生み出す「偶像」の虚像を虚空に見ていたのでしょうか?この辺、マトリックスの仮想現実世界の設定にも繋がる気もしますが。。
「黄金の仔牛の踊り」では暗闇の中で盲人用の杖を思わせる蛍光灯のような棒が踊っていた(持っているのは合唱のメンバー)ことも、彼らには真実が見えていない、という象徴であるかのようにも思われます。
二人の主役であるモーゼとアロンを演じた歌手は演目の大変さを考えると極めて安定した歌唱であったといえますが、アロン役のトーマス・モーザーに若干疲れが見られたのが惜しかったです。
気になったのが聴衆の反応です。
引越公演でこのような難曲を持ってきた心意気に(そしてもちろん高水準な演奏にも)私は大きな拍手を送りたいと思っていたのですが、実際の聴衆の反応はなんとも生ぬるく儀礼的な拍手で、シェーンベルクの偉大な音楽もモーゼの言葉と同様、いまだ理解され得ぬものなのだな、と痛感しました。
June 10, 2007
リサイタル終了
無事、かどうかは分かりませんが、なんとか終わりました。
1週間の間に4つの本番(大作ばかり)を抱えた大井氏とのリハーサルの時間の確保があまり出来ず、不安もいっぱいでしたが、逆にステージに立ったら思い切り開き直り、却って思い切った演奏ができました(少々雑なところもあったかと反省もしますが)。
声とピアノという同じ編成で、初期から晩年のシェーンベルクの作風の変遷を辿るコンセプトを理解して頂けた方も多く、嬉しく思います。
かなりの不安材料であった集客も、雨にも関わらず大量に出た当日券も幸いして、こちらの想定していた最大の人数になりホッとしました。
「ピエロ」「ワルシャワ」ともに指揮者無しでは非常にアンサンブルの大変な作品ばかりで、あまりの集中度合に帰宅後抜け殻のようになってしまいましたが、大井氏は火曜日にバッハの「フーガの技法」全曲をクラヴィコードで演奏するパワーをまだ持ち合わせています。
私ももっと精神を鍛えなくてはなりません。
June 09, 2007
当日券あります。
明日のけやきホールでのシェーンベルク企画のチケット、CNプレイガイドはすでに発売を終了していますが、まだ残席はあります。当日券も発売予定ですが、10日の午前7時までの申込は前売扱いとしますので、私まで直接メッセージを送信して下さい。
ご来場を心よりお待ちしています。
[お詫び]
本公演で演奏を予定していましたピアノ・ソロ版「黄金の仔牛の踊り」(川島素晴編曲)は、演奏者の都合により今回は演奏中止となりました。大井浩明氏は別の機会でこの作品を取り上げる予定ですが、演奏会場及び本サイトで詳細をお知らせする予定です。
June 05, 2007
牛と猫
10日のシェーンベルク企画のために川島素晴氏に委嘱した「モーゼとアロン」の「黄金の仔牛の踊り」のピアノ・ソロ版はものすごいことになっているようです。この複雑なオーケストラ曲をピアノ・ソロに編曲するという話自体がかなり無茶なのですが、川島氏の解説によると「演奏不可能に限りなく近い超絶技巧を終始継続する、大変な難曲」ということで大井氏の演奏がどのような壮絶なものになるのか非常に興味深いです。
リスト編曲によるヴァーグナーの「タンホイザー」序曲などもかなりの難曲ですが、そうした作品をはるかに超えたものなのではないかと個人的には期待してます(仕上がってはいますが、譜面はまだ見ていません)。
牛の話が出たので動物繋がりで猫ネタも。
先月の双子座三重奏団・三位一体ライヴで演奏したロッシーニの「猫の二重唱」のイントロとして生演奏にかぶせた猫の鳴き声の録音(mp3)を以下にアップします。
http://tierkreis.web.infoseek.co.jp/sounds/cat_duetto.mp3
ただ猫の鳴き声の録音を流すだけではつまらないので、ちょっと「ダブ風」にディレイをかけたりピッチを変えたりしてますけど、所詮お遊び、製作時間30分ほどの作品です。
June 03, 2007
ヘブライ語の旧約聖書
前回の記事でも触れた「ワルシャワの生き残り」の最後に男声合唱で歌われる「聞け、イスラエルよ」の含まれる申命記第6章のヘブライ語と英語の対訳はこちらで見ることが出来き、ヘブライ語による朗読も聞くことができます。
http://www.mechon-mamre.org/p/pt/pt0506.htm
リンク先を辿れば旧約聖書全体の対訳と朗読の任意の箇所へアクセス出来ます。
シェーンベルクの声楽曲でヘブライ語を歌詞にしたものには最晩年に作曲された合唱曲「深き淵より作品50B」があり、これは詩篇130番を歌詞にしています。
6声のアカペラ合唱のための作品ですが、線的なポリフォニーと音程の記譜されていない語りの絡み合う効果が非常に素晴らしく、あまり注意を向けられることはありませんが、実はものすごい傑作だったりします。
May 31, 2007
ヘブライ語
6月10日のシェーンベルク作品のリサイタルの最後は「ワルシャワの生き残り」で、ナレーターと最後の男声合唱を一人でやります。男声合唱は殺される寸前のユダヤ人の歌う「聞け、イスラエルよ שמע ישראל」で、歌詞はヘブライ語になります。
楽譜にはローマ字に書き直した歌詞がのっていますが、より正確に発音し、ある程度単語の意味も理解して歌いたいので、最近ヘブライ語関連の文献を勉強し、ヘブライ文字も何となく読めるようになってきました。
ヘブライ語の曲だと、数年前にバーンスタインの「チチェスター詩篇」の合唱を歌ったことがありますし、バリトン・ソロのあるストラヴィンスキーの「アブラハムとイサク」は名作なので機会があれば是非歌ってみたいので、今回はヘブライ語を学ぶ良いチャンスでした。
ただヘブライ文字を一生懸命眺めすぎたせいか、電車の点字の案内までヘブライ文字に見える始末。。。
May 21, 2007
グールドのシェーンベルク
「グールドのシェーンベルク」
グレン・グールド著、鈴木圭介訳、筑摩書房
全てシェーンベルク作品のリサイタルをやるので、関連してシェーンベルク関係の書籍の紹介を。
この本はグールドが制作したシェーンベルクに関するラジオ放送の内容を書籍としてまとめたものですが、これ一冊を読めば、シェーンベルクの創作活動を様々な側面から俯瞰し、初心者のためのちょっとした作品鑑賞ガイドにもなる、なかなか「うまい」構成になっています。以下の目次を見ればそれがよく分かるかと思います。
1 人と作品
2 歌曲作曲家シェーンベルク
3 発明家シェーンベルク
4 社会派シェーンベルク
5 シェーンベルクとマーラー
6 交響曲作曲家シェーンベルク
7 劇音楽作曲家シェーンベルク
8 シェーンベルクと過去
9 シェーンベルクと未来
10 エピローグ
いきなり「歌曲作曲家」としてのシェーンベルクが登場するのが驚きですが、グールドはシェーンベルクの歌曲が過小評価されていることにここで異議を唱えています。
私が以前執筆した論文にまさに同じことを書いたのですが、彼の歌曲におけるピアノ声部の複雑なポリフォニーの書法(そのポリフォニーの対等な1声部として声楽声部が加わって転回対位法までもが試みられています)や、彼の歌曲作品を俯瞰することによって後期ロマン派風の作風から無調に至る作風の変化を手に取るように体感出来ることなどが述べられています。
「シェーンベルクと未来」ではグールドがジョン・ケージにシェーンベルクについてのインタビューをする、という乙な企画が用意されていますが、シェーンベルクにとっては極めて「悪い弟子」であったはずのケージが、シェーンベルクに対する深い賞賛を惜しげもなく披露しているのにはちょっとびっくりしました。ケージは、しばらくはヴェーベルンにより多くの関心が向けられるだろうが、これからはシェーンベルクへの関心が高まるだろう、とすら述べています。
ケージの、師シェーンベルクとの出会いのエピソードもとても興味深いです。
このラジオ放送の音源(当然こちらには作品をじっくりと聴くコーナーもあります)も入手可能であれば聴いて見たいものです。
May 19, 2007
シェーンベルクな午後
松平敬・大井浩明 デュオ・リサイタル
誦まれ 歐われ 語られる 〜シェーンベルクな午後〜
2007年6月10日(日)14:00開演(開場13:30)
於:古賀政男音楽博物館1階・けやきホール
松平敬(バリトン)、大井浩明(ピアノ)
チラシ
入場料:前売3000円、当日3500円、学生2000円
前売券販売:CNプレイガイド(インターネットから購入)
学生券は松平までメールを下さい。(メッセージを送信)
演奏曲目:
貴女の黄金の櫛を私に下さい 作品2-2(1899)
興奮 作品3-2(1903)
警告 作品3-3(1899)
練習を積んだ心 作品3-5(1903)
すべて 作品6-2(1905)
見捨てられた 作品6-4(1903)
誘惑 作品6-7(1905)
決死隊 作品12-2(1907)
感謝してはいけない… 作品14-1(1907)
この冬の日々に 作品14-2(1908)
渚にて (1909)
ペトラルカのソネット(『セレナーデ』作品24より)(1922-23) [F.グライスレ編曲]
休憩
月に憑かれたピエロ 作品21(1912)(全21曲) [E.シュタイン編曲]
黄金の仔牛の踊り(歌劇『モーゼとアロン』より)(1926-32) [川島素晴編曲](ピアノ・ソロ)
ワルシャワの生き残り 作品46(1947) [K.フレデリック編曲]
前半はシェーンベルクの後期ロマン派風の初期から無調に至る時期への作風の変遷を歌曲作品を通じて辿っていきます。優れた作品ながら、あまり演奏の機会のないシェーンベルクの歌曲の多彩な世界をお楽しみ下さい。
前半の最後は12音列を使った最初期の作品「ペトラルカのソネット」(「セレナーデ」第4楽章)です。
後半はシュプレヒシュティンメ、語りなどシェーンベルクらしい個性的な声楽技法を使用した彼の代表作「月に憑かれたピエロ」「ワルシャワの生き残り」を演奏します。
「月に憑かれたピエロ」の5人の室内アンサンブル、「ワルシャワの生き残り」のオーケストラ・パートをどちらもピアノ用に圧縮したヴァージョンでの演奏になりますが、現代音楽の名手、大井浩明氏が演奏するとどういうことになるのか共演者としても非常に楽しみです。
もちろん「ワルシャワ〜」の語り、最後の男声合唱とも、私が1人で演奏します。
通常は女性歌手によって演奏される「ピエロ〜」を男声で演奏するところも見どころでしょう。
この作品の間に「モーゼとアロン」の中の華麗なオーケストラ曲「黄金の仔牛の踊り」を間奏曲的に挟みますが、かなり複雑なオーケストラの対位法をピアノ・ソロに編曲しての演奏となります。ちなみに、この編曲は川島素晴氏に委嘱してありますが、この無理な要求に彼がどのように答えるのかも注目です。
April 23, 2006
シェーンベルク「今日から明日へ」
シェーンベルクのオペラ「今日から明日へ」を映画化したもののDVDです。シェーンベルクのオペラといえばどうしても「モーゼとアロン」ばかりが注目されがちですが、このDVDを見ると「今日から明日へ」も中々捨てたものではないな、と思えるのではないでしょうか?1幕ものの1時間ほどのオペラで内容も夫婦のちょっとした喧嘩を取り扱った軽い内容ですが、音楽はシェーンベルクらしい充実したもので、最初はこうしたストーリーを12音技法を使って作曲する必要があるのか、とやや疑問だったのが、最後の4重唱では思わず唸ってしまうまでに音楽に引き込まれてしまいました。ちなみに演奏はギーレン指揮による非常にしっかりとしたものです。(同一演奏者によるCDも出ていますが、テイクは異なっていると思います。解説によると撮影しながら同時に演奏しているとの事。)
ストローブ=ユイレによるモノクロの映像も美しく、全編数台の固定したカメラのカットの交替だけで通すストイックな効果(つまり画面が動きません)が印象的です。カットが切り替わったら歌っている人ではなく椅子だけが写っているカットがあったり、4人で歌っているのに常に二人ずつしか映さなかったり、という、場面全体を見せない演出も、緊迫感を高めています。
付録として『アーノルト・シェーンベルクの《映画の一場面のための音楽》入門』という短篇がついていて、シェーンベルクをとりまく反ユダヤ主義との関わりが赤裸々につづられますが、「映画の一場面のための音楽」にどんな映像がついているか、という興味で見ると期待外れになるでしょう。この音楽も使われていますが、BGM以上の役割は果たしていません。
December 16, 2005
「創世記」組曲
1945年に7人の作曲家のコラボレーションによって作られた「創世記」組曲の新録音です。
作曲家と作品の分担は以下のようになっています。
シェーンベルク:前奏曲
シルクレット:天地創造
タンスマン:アダムとイヴ
ミヨー:カインとアベル
カステルヌオーヴォ=テデスコ:洪水
トッホ:契約(虹)
ストラヴィンスキー:バベル
この組曲には初演の演奏者が参加したものすごく古い録音があって、数年前にCDとして発売されていましたが、今回のナクソスからのものは2000年の新録音です。まず注目すべきは冒頭のシェーンベルクの「前奏曲作品44」です。この作品は他にほとんど録音がないので非常に貴重なのですが、6分弱の短い曲ながら極めて充実した作品に仕上がっています。この短い作品の最後の方に少しだけ合唱が加わるのがネックになって演奏されにくいのだと思いますが、もっと広く紹介されるべき名作だと思います。この前奏曲は天地創造前の混沌を表していて(12音音楽をそうした概念と結びつけてしまう企画者のシルクレットの発想には賛同できませんが結果的に名作が生まれたのでよしとしましょう)、シルクレットの作品から聖書の「創世記」の物語が語り手を加えて展開されていく、という構成になっています。
緊張感に満ちたシェーンベルクの美しい作品のあとにSF映画のB級サントラのようなシルクレットの作品が続くときのあまりのギャップには唖然としてしまい(そもそもシルクレットは映画音楽のジャンルで活躍していた作曲家なのです)、それに続く作品もドビュッシーやラヴェルの影響が伺える「生ぬるい」音楽ばかりですが(これは聞き込んでいく内に印象が変わっていくかもしれません)、最後のストラヴィンスキーが(彼にとっての大傑作とは言えなくても)それなりにしっかりした作品なので少しほっとします。
一般受けしそうなのは「生ぬるい」方だと思いますが、この組曲を聴くとシェーンベルクとストラヴィンスキーがいかに偉大な作曲家であるかというのが浮き彫りになってきます。
天地創造の物語を音楽化したものはハイドンの「天地創造」をはじめとして沢山ありますが(ミヨーにもありますね)、「創世記」のそれ以降の話を題材にしたものに広げるとシェーンベルクの「ヤコブの梯子」、ストラヴィンスキーの「洪水」「アブラハムとイサク」など、様々な名作がずらずらと出て来ます。シュトックハウゼンの「光」に出てくるエーファも、アダムの妻イヴに由来したキャラクター(しばしばイエスの母マリアとも結びつけられています)だったりもしますが、こうした一連の物語は人間の精神の根源にも繋がる部分があるので音楽化の創作欲を沸き立たせるのでしょう。
October 07, 2005
シェーンベルク「モーゼとアロン」
シェーンベルクの未完のオペラ「モーゼとアロン」はシェーンベルクの代表作であるだけでなく、「声」を音楽の中でどのように取り扱っていくか、という観点から見ても今なお非常に興味深い作品であり続けています。
大衆の前で話すことの苦手なモーゼはシュプレヒシュティンメ、雄弁なアロンはヴァーグナーばりの朗々としたテノールと対照的な歌唱法で作曲されているだけでなく、合唱(及び小編成の声のアンサンブル)もしばしば2群に分けられ、それぞれが通常の歌唱法とシュプレヒシュティンメに分かれて対比を見せます。
このオペラでの合唱パートは通常のオペラの合唱書法と全くかけ離れた非常に複雑で長大な対位法で構成されていて、バッハの受難曲の複雑な合唱パートを彷彿とさせますが、この2種類の唱法だけから実に様々な響きを生み出すことに成功していることは特筆すべきです。
シュプレヒシュティンメはシェーンベルクの発明した唱法ですが、これは長い声楽の歴史の中でも特筆すべき革命的な演奏法といっても過言ではありません。しゃべるように歌うことによるピッチやポルタメントのニュアンスが音響的にも音楽表現としても極めて強いインパクトを与えますが、それを複雑な合唱の対位法に取り込むことによってその効果は著しく高められます。特に最弱音で囁くように演奏する場所では声のノイズ的側面が強調され、大袈裟な言い方をすればラッヘンマン的な響きを予感させます。
ケーゲル指揮によるこの作品の演奏ではこうした声の表現が神経質なほどに研ぎ澄まされていて、見事に統率された合唱団の演奏には思わず身震いしてしまいます。
ソリスト、オーケストラも非常に緊張度の高い演奏を繰り広げていて、目まぐるしく変化するシェーンベルクの音楽の素晴らしさが余すところなく引き出されています。
スコアを見てみてみると、無駄のないすっきりとしたオーケストレーションが施されているのがよく分かりますが、部分的にはヴァレーズを思わせるような斬新な音響の組み合わせがあったりしてびっくりします。
しかしやはり大きな感銘を受けるのは緻密な合唱声部の書法です。単に歌うだけでも並の合唱団では全く無理ですが、暗譜して演技をしながら歌うとなると、ものすごい稽古の量が必要だと思います。
なぜ非常に短い台本の第3幕が完成させられなかったのか非常に気になりますが、同じく未完成に終わった「ヤコブの梯子」も偉大な作品であるというのは偶然であるとはいえとても興味深いです。
October 20, 2004
修士論文&修士演奏
部屋を掃除していたら、Macの買い替えやらアップグレードやらですっかり紛失あるいは消去していたと思い込んでいた大学院の修士論文関係のファイルやその時に作成した移調楽譜のデータが出て来てびっくりしました。バックアップ用のCD-Rが出て来たのですが日付を見ると1999年の1月、もう5年前です。
印刷したものはきちんと取ってあったのですが、パソコン用のデータが行方不明になっていたので何かの時には一から入力し直さなければな、と思っていたのでとてもうれしいです。
移調譜のデータはFinale97という凄まじく古いヴァージョンのソフトで作ったものなのですが、Fineleの現行ヴァージョンFinale2004bで問題なく開けるので、こちらは再利用は簡単です。
シェーンベルクの歌曲の移調は人力だとものすごく大変だし、入力するにしてもピアノパートが入り組んでいて、ものすごく複雑なので助かりました。
修士論文ですが、ORGAIという多分今は売っていないであろうワープロソフトで作成してOS X用のヴァージョンなど開発されていないはずなので、ファイルが見つかっても開けないかな、と思いつつクリックしてみるとClassic環境が起動してあっさり開けてまた感動。今使っているPowerBookにそのORGAIがきちんとバックアップされていたので開けたのです。
論文作成時のMac OSのヴァージョンは8.5、古のOSでその時使っていたソフトが問題なくOS 10.3.5で開いた、というのはなかなか凄い事だと思います。
譜例の画像のリンクが切れているのでこれは手動で修復する必要がありますが、譜例の画像自体もきちんと残っているので問題なく修復できるでしょう。
とはいえいつまでもそのソフトが起動できる保証もないし、このファイルのためだけにそのソフトをクラシック環境を立ち上げて起動させるのも面倒なので、今使っているワープロソフトにデータを移植してPDF化しようと計画しています。
そして閲覧を希望する人がいればそのPDFファイルを配付できるようにするともっと良いかな、と思います。
ちなみに修士論文のタイトルは「シェーンベルクの1903年から1908年の歌曲」です。
(付記:現在、この論文はPDF化の作業が終わりこちらのページよりダウンロードすることが可能になっています。)
ついでに目次(一部割愛)も載せておきましょう。
第1章 シェーンベルクの歌曲創作
シェーンベルクの歌曲創作の概観
調性期の歌曲創作
第2章 1903年から1908年の歌曲の作曲様式
それぞれの歌曲の作曲年代
作曲様式の特徴
旋律線について
和声について
・全音音階
・4度和声
モチーフの対位法的展開
第3章 幾つかの注目すべき歌曲に関する考察
〈警告〉の改訂について
〈決死隊〉の楽曲分析
《渚にて》について
結論
付表
a)シェーンベルクの作品の演奏記録
b)シェーンベルクのそれぞれの作品の演奏回数
ついでに修士演奏(1999/1/26)のプログラム(約30分)も載せておきましょう。
(カッコ内は作詞者)
Arnold Schönberg:
Geübtes Herz, Op.3-5 (Gottfried Keller)
Die Aufgeregten, Op.3-2 (Gottfried Keller)
Warnung, Op.3-3 (Richard Dehmel)
Alles, Op.6-2 (Richald Dehmel)
Verlassen, Op.6-5 (Hermann Coradi)
Lockung, Op.6-7 (Kurt Aram)
Ich darf nicht dankend, Op.14-1 (Stefan George)
In diesen Winter tragen, Op.14-2 (Georg Henckel)
Am Strande, (Op.14-3) (Reiner Maria Rilke?)
Der verlorne Haufen, Op.12-2 (Viktor Klemperer)
May 01, 2004
Schönberg: Die Jakobsleiter
ケント・ナガノによるシェーンベルクの「ヤコブの梯子」が出ました。カップリングは合唱の難曲「地に平和」ですが、オーケストラ版とオリジナルのア・カペラ合唱版の2種類を収録しているところが特徴です。この曲のオーケストラ版は、作曲当時の合唱団のレベルではこの難曲をア・カペラで歌うことが非常に困難だったので音程の補佐的な意味合いで合唱をサポートする目的で作曲された訳ですから、ここでの演奏のようにそのオーケストラ・パートのみを演奏することは作曲者の意図とは全く外れているのですが、これはこれでなかなか面白いです。合唱の方もかなり演奏レベルは高いと思いますが、合唱団としてのサウンドの透明度がやや足りないのが惜しいところです。
メインの「ヤコブの梯子」ですが、演奏をざっと聞いただけなので何とも言えませんが、こちらもかなり素晴らしい演奏と言っても良いと思います。実はケント・ナガノとシェーンベルクの相性はものすごくいいのでは、と思います。シェーンベルク作品特有の音色の繊細さと透明さが演奏、録音の両面からうまく出ているのも好感が持てます。
シェーンベルクの作品の中で、大曲の割にマイナーな位置にあると思っていたこの曲も、気が付けば、ブーレーズ、ギーレン、秋山、インバル、ナガノと録音の数も増えてきました。
June 20, 2001
シェーンベルクとサウンド・コンポジション
アルノルト・シェーンベルク Arnold Schoenberg は20世紀で最も重要な作曲家であり、彼がいなければベルクやヴェーベルンはもちろん、ブレーズやシュトックハウゼンも作曲家として大成できなかったであろう。
シェーンベルクの打ち出した新しい作曲概念「無調性」と「12音技法」については、その名前すら聞いたことのない人は皆無であろうし、現代音楽に詳しい方ならこれらの概念は「一般常識」であるはずだ。しかし、シェーンベルクが亡くなってからもはや半世紀が経とうとしている現在においてもこれらの概念が一般の人に正しく理解されているとは言い難いし、シェーンベルクの作曲家としての評価も、いまひとつ正当性を欠いたものが多いような気がする。
「現代音楽」というものに懐疑的な人にとっては、「12音技法」という悪魔の作曲技法を生み出した真犯人、現代音楽「通」にとっては「12音技法」という新しい作曲概念を発明したにもかかわらず、それを結局うまく使いこなせなかった保守的な作曲家、といった批判がもっとも多く耳にするものであろうか。
「12音技法」の概念は従来の調性音楽の機能和声の概念に比べると極めてシンプルな作曲技法であり、かつ真に新しい作曲概念をもたらすものであるが、シェーンベルクはその新しい技法をソナタ形式や変奏曲といった旧来の形式概念の下で展開させ、それが作曲概念上の大きな矛盾を生み出してしまった。
ブレーズを始めとするシェーンベルクに対するほとんどの批判がこの点に集中しているが、そうした矛盾があるからといって、シェーンベルクの12音技法を用いた作品が駄作かと言うと決してそうではないことは、12音技法期のシェーンベルクを批判している当のブレーズがこれらの作品を演奏し、録音していることからも明らかである。
シェーンベルクは12音技法によって音高を組織化することには成功したが、その技法をリズムや強度、音色などに拡大する先進性までは持ち合わせていなかった、そういう意味でシェーンベルクは19世紀的な音楽観の作曲家である、といった意味のことをシュトックハウゼンが著書の中で述べているが、無調の音楽を作曲し始めた1910年前後の時期の作品において、非常に原始的な段階であるが、音色に対する新しい実験が行われた作品のことについては忘れてはならない。
この実験で良く知られているのが「音色旋律」というもので、ひとつのメロディーを複数の楽器で受け渡していく手法である。この技法は、それまでは副次的な機能しか与えられていなかった「音色」というパラメータを本質的な音楽要素として扱おうとする試みであり、1909年に作曲された「5つの管弦楽曲 作品16」の第3曲と第5曲にその実例が見られる。特に第3曲では旋律的な要素がほとんど存在しておらず、静的な和音の「音色のうつろい」つまり「サウンド」自体が作曲の本質的な要素となっていて(楽器法はもちろん和声の変化もサウンドの変化として捉えられる)、その視点の新しさはヴェーベルンやヴァレーズはもちろん、フェルドマンなど戦後の作曲家の作風すら先取りしている。
このように音楽をメロディーや和音の集まりでなく「サウンド」として捉え、構成していく作曲法をシュトックハウゼンは「サウンド・コンポジション」と呼び、この概念から初期の電子音楽の傑作を次々と生み出していったが、このような戦後の新しい音楽概念の胚芽となる作品をシェーンベルクはすでに1909年に作曲していたのである。シュトックハウゼンはサウンド・コンポジションの戦前の試みとしてヴェーベルンやヴァレーズの作品、ケージのプリペアド・ピアノや打楽器アンサンブルのための作品を挙げているが、シェーンベルクのこの試みがたとえ原始的な段階に留まっているとしても、ヴァレーズやケージのそれよりもかなり以前に行われていることは注目に値する。
ただ、シェーンベルクの「5つの管弦楽曲」とほぼ同時期に作曲されたヴェーベルンの「管弦楽のための6つの小品 作品6」にもサウンド自体が作曲の大きな要素となっている部分が見受けられるが、それでもシェーンベルクの作品16の第3曲ほどサウンドの構成のみに作曲の重点をおいた部分は存在していない。
この曲に関しては、シェーンベルクが「音色」というものに対して作曲上極めて大きな役割を強く意識して与えているのは明白であるが(事実出版譜にはこの曲に対して「色彩」というタイトルが与えられている)、これほど意識的でないにしても、この時期のシェーンベルクの他の作品に「サウンド」を強く意識したパッセージは数多く見られる。
ロマン派の概念を押し進めた表現主義の作品として1910年前後のシェーンベルクの作品に接するのでなく、戦後シュトックハウゼンらが意識的に推進したサウンド・コンポジションへの無意識の遠い原形としてこれらの作品に接し直すことでシェーンベルクの新たな側面が浮き彫りになってくるのではと考え、実例を交えつつこのことについて考察して行きたい。
シェーンベルクが12音技法を編み出し無調音楽を組織的に作曲できるようになるまでは、さまざまな詩や台本など、テキストの素材が彼の作曲の出発点となっていた。誰も足を踏み入れたことのない「無調」という未知の音世界を探究するのには、こうした音楽外の要素をきっかけとして作曲するのが当時のシェーンベルクにとって最も容易な方法だったのだろう。
ここでシェーンベルクが選んだテキストは、どれも精神の深層を描いた神秘的なものであり、これが当時の聴衆はもちろん、現代の聴衆にも少し近付き難い印象をもたらしていることも事実である。
シェーンベルクが無調の作品を書き始めて12音技法を生み出すまでの間の時期の作風を「表現主義」と一般に呼んでいるが、この時期の音楽を、「表現主義」というレッテルはもちろん、テキストからも解き放ち、「未知の音響への実験」という純音楽的な視点から捉え直してみるとシェーンベルクの新たな魅力が発見できるだろう。
シェーンベルクは和声の協和、不協和について、倍音の概念を用いて次のように説明している。「一般的に協和音とされている和音の構成音はより低次の倍音に由来し、不協和音とされている和音の構成音はより高次の倍音に由来している。従って、協和音、不協和音といった対立的な捉え方は正しくなく、相対的な協和度の違いがあるだけで、不協和音も『はるかな協和音』として認識できる。」
現在ではなかば常識となっている音響的な理論で、すべての音はある周波数のサイン波と、その整数倍の周波数のサイン波(つまり倍音)へと分析できる、つまり音色の違いというのはこの倍音成分の組成の違いに由来する、というものがあるが、この理論とシェーンベルクの和声についての考え方を組み合わせてみると、シェーンベルクは(意識的か無意識的かは別として)「和声=音色」という捉え方をしていることが分かるだろう。
つまりシェーンベルクは「3和音」という低次倍音のみに基づいた単純な「音色(=和声)」による調性音楽のシステムを捨て去ることにより、一般的に「不協和音」と呼ばれている、より複雑な「音色」を手に入れた、そしてそれが無調音楽と呼ばれている、と言えるだろう。
ただし、複雑な音色といっても、ヴァレーズやケージのように打楽器を始めとする全ての音響(伝統的な音楽概念では「ノイズ」と呼ばれる)を音楽の本質的な要素として解放した訳ではなく、「楽音」と呼ばれる音高のはっきりと定まった音色のみに限られていて打楽器などのノイズ的音響は単なる装飾的要素としてとどまっているに過ぎないことには注意しておきたい。
こうしたことを始めとして、シェーンベルクは基本的には伝統的な音楽観をもった作曲家であり、ロマン派の作曲家とそれほど音楽観に隔たりがある訳ではない。
しかし、前に挙げた「5つの管弦楽曲 作品16(1909年作曲)」などのように音響自体を音楽の本質的な要素として扱う試みは、12音技法によって作曲するようになってからはさらに発展させられることはなかったにしても(12音による作品では、音色は作品の構造を明確にするための要素としてのみ存在する、つまり音色は音高に奉仕する)、ヴァレーズ、シュトックハウゼンの「サウンドコンポジション」を予感させるのに十分な革新性を持っている。
「5つの管弦楽曲」の第3曲では伝統的な音楽で最も重要な要素「メロディー」が全く欠落している。「和声」は存在しているが、その変化は非常に微細でリズムもほとんど感じさせない静的なテクスチュアを保っているので、この音楽を聴く人の耳は必然的に音色の変化へと向かい、こうした耳で聴くと和声の変化も音色の変化として知覚される。
このスタティックな音響にときおり数音からなる短い音形が加わるが、これらももはやモティーフとしてではなく一種の「音響的オブジェ」として認識される。全く同じ音形が全く音程関係を変化させずに散発的に繰り返されることによって、これもやはり音色へと聴き手の興味を誘う。
ここで重要なのは、音色の変化ではなく、和音、短い音形などが「音響的オブジェ」として捉えられている、ということである。この考えを徹底させると、これらの和音、短い音形などを、シンバルや銅鑼の一打ち、ウッドブロックのリズム、電子的な音響などありとあらゆる世界中の音響と等価に捉え作曲素材として平等に扱うことができるようになるが、こうしたアイデアはヴァレーズら、新たな世代の作曲家によって実現された。
この「音響的オブジェ」という決定的に新しい考え方が「5つの管弦楽曲」の第3曲で明確に示されているのに対して、この第3曲と同じように音色に作曲上の大きな関心が置かれた第5曲には、全くこの「音響的オブジェ」という観念が欠落しているので、その豊かな音色にもかかわらず音楽としては19世紀的な、マーラーの影すら感じさせる作風にとどまっている。
この観点からみると、この第5曲よりはむしろ第2曲に「音響的オブジェ」の概念が感じられる部分がある。
スコアの練習番号6番の3小節目(サイモン・ラトル指揮バーミンガム市交響楽団の演奏のCDでは開始から3分2秒目)からチェレスタとフルートによって全く同じ音形が執拗に繰り返されるが、この無機的な繰り返しゆえに、この音形が音響的オブジェとして知覚される。このすぐ後にファゴットによるスタッカートの短い音形が加わり、この音形は多少の変形を受けながら繰り返されるが、こちらも音響的オブジェの変容として捉えられる。
これと同じような例が「6つのピアノ小品 作品19(1911年作曲)」にも見られる。よく知られているように、この小品集は演奏時間が極端に短いので聴衆の耳は音楽の展開ではなく、一瞬一瞬の音響に注意を向けざるを得ない。演奏時間自体が短いので音響オブジェ自体が一つの小品となったともいえるが、特に第2曲と第6曲で特定の和音の無機的な繰り返しによる音響のオブジェ化が見られる。
第2曲ではG−Hという2声の和音が基本的に8分音符のスタッカートで同じ音域で表れるため、コツ、コツ、といったようなノックの音を連想させる音響オブジェの性格を帯び、途中でこの和声が4分音符に長さを変えるだけで、このオブジェが大きく変容するように感じられる。
第6曲ではA−F#−HとG−C−Fという二つの3声の和声が、長い音価にわたって鳴らされるが、こちらは2つの鐘が無関係になっているように聞こえる(実際この和音がマーラーの葬儀の鐘を表しているという有力な説がある)。
私達は鐘の音を聴く時に音楽の展開や和音の構成音などといったことは気にせず、ただその音色、音響を「音そのもの」として、つまり、「音響オブジェ」として知覚するが、この曲も全く同じ種類の聴取を要求している。
音楽が音響オブジェとして知覚されるための重要な条件として、モチーフの展開によって作曲するという伝統的な概念によらず音楽を構成する、ということが挙げられるが(先に挙げた短い音形や特定の和音の無機的な繰り返しもこれに当たる)、この概念の転換を「3つのピアノ曲作品11(1909年作曲)」に見ることができる。
1909年の2月に作曲されたこの曲集の第1曲と第2曲は部分的に音響オブジェへの傾向(例:第1曲12小節目)が見られるものの基本的にはモチーフを用いた伝統的な作曲法の延長線上にある。しかし、「5つの管弦楽曲」の完成間際の8月に作曲された第3曲にはモチーフを用いて音楽を統一しようという意志は全く感じられず、次々と新しい音響現象が表れては消えていく。つまり音響オブジェのつらなりとして作曲されているのだ。
この独創的なピアノ小品の後すぐに作曲された「期待(1909年作曲)」では、前作で示唆された方向性が30分という極端に長い演奏時間の中で大きく発展させられている。
この作品は30分という大作であるにもかかわらず、全体に通して表れるモチーフや主題が全く存在せず、テキストからインスピレーションを受けたパッセージを次々と作曲していくという、散文的な作曲法をとっている。テキスト自体は、ある女が夜森の中へ恋人を探しにいって、彼の死体を見つける、という簡単なストーリーはあるものの、テキストのほとんどはこの女の独白に終止しているため、テキスト自体にも明確なストーリーの展開というものが欠けている。
という訳で、このモチーフの存在しない音楽は、音そのもの、つまり音響オブジェとして聴かれることを徹底的に要求しているが、シェーンベルクのその他の作品の中で、この傾向がここまで極端に押し進められたものは存在しない。
さらにもう一つ、この作品に特徴的なのが、序奏があって、なんらかのテーマが呈示されてそれが展開されていく、という伝統的な音楽の展開とは全く異なっていることである。このことはモチーフが存在せず音響オブジェの連なりとして作曲されているということに由来するが、音楽が始まって何らかのクライマックスに達して、もっともらしく終結するなどという方向性を期待してこの音楽を聴取しようとすると、この音楽は決して理解できないであろう。
アドルノは、この「期待」の音楽は「一瞬の永遠を400小節の中で」明かすものである、と述べているが、実はこの考え方はシュトックハウゼンの「モメント形式」の概念に非常に近いものがある。
モメント形式とは、数秒から数分から成る「モメント」と呼ばれるそれ自体で独立した音楽事象を組み合わせることによって、作品を構成していくシュトックハウゼンによって考案された形式概念であり、彼の「コンタクテ」「カレ」「モメンテ」などの作品はこの概念をもとに作曲されている。
こうした形式を持つ作品を聴取する時には音楽の展開を期待するような方法は好ましくない。一瞬一瞬の音響を前後関係とは無関係に、そのものとして聴取することが必要である。
モメント形式についてシュトックハウゼン自身の言葉を引用しておこう。
「一つのモメントは前のモメントの結果でもなければ、次のモメントの原因でもない、つまり決められた持続の一部である必要はない。そうではなくて、そこでは『今』への、一つ一つの『今』への集中がいわば垂直の切断面を作り出し、それが水平的な時間概念を縦横無尽に切断し、やがては無時間性へと至るのである。それを私は永遠と名付ける。時の終わりに訪れる永遠ではなく、あらゆる瞬間に手の届く永遠。」(「シュトックハウゼン音楽論集[清水穣訳 現代思潮社]より引用)
シェーンベルクの「期待」もシュトックハウゼンのモメント形式の作品を聴取するように、音楽の大きな流れではなく、その都度表れる一つ一つの音響現象をそのものとして集中的に聞くことによって、この先鋭的な音楽の真価を感じ取ることができるであろう。
30分という長大な演奏時間を必要とする「期待(1909年作曲)」とほぼ同じ演奏時間の「月に憑かれたピエロ(1912年作曲)」においては、「期待」とはまた違ったアプローチから音楽の音響オブジェ化の試みが行われている。
この「期待」と「月に憑かれたピエロ」は、どちらも一人の歌手のソリストと器楽合奏のための半時間の音楽であるという点では共通しているが、その他の面では非常に対照的な特徴を持っている。
まず、ソリストである歌手は「期待」においてはヴァーグナー以来のオペラ的でドラマティックな歌唱が要求されるが、「ピエロ」においてはシュプレヒシュティンメという語りと歌を混ぜたような全く新しい歌唱法が要求されている。
また、「期待」は約30分という長大な単一楽章の作品であるのに対し、「ピエロ」ではこの同じ30分という演奏時間が21曲の小品に分かれている。
そして「期待」の器楽部分は後期ロマン派風の4管編成の巨大な管弦楽であるが、「ピエロ」はサロン風な趣も持つ管楽器、弦楽器、ピアノからなる5人編成の室内楽である。
歌手のソロと器楽合奏という共通点を持つこの2つの作品の、以上のような対照的な特徴は、「期待」が後期ロマン派の最終地点であり、「ピエロ」が後に発見される12音技法に始まる新しい作曲様式への出発点である、という作品の位置付けの違いを象徴しているとも言える。
「期待」においては様々な音響オブジェ的なフレーズが長大な楽曲の中で次々と表れては消えていくが、「ピエロ」においてはこうした音響オブジェ自体(厳密に言えば音響オブジェの小集合)が1つの小品として独立している。音響オブジェ自体をミニチュア的な小品として構成する作曲法は「6つのピアノ小品作品19」や「心の茂み作品20」ですでに試みられている。
作品19のピアノ小品ではピアノという単一の音色の中で、様々な和音や断片的なフレーズなどを音響オブジェとして扱っているが、「心の茂み」では音響オブジェの扱いがもう一歩前進している。この作品はソプラノ独唱、ハープ、チェレスタ、ハーモニウムという前例のない楽器編成を要求しているが、これは作曲者の頭の中にある音響(あるいは音色)のイメージを実現させるためにこのような楽器の組み合わせになったのであろう。こうした考え方は現在では珍しいことではないが、彼の生きていた時代には、室内楽にしろ、オーケストラにしろ、ある種の定型的な楽器編成があり、その楽器編成のもとで作曲者が創造力を働かせる方法が一般的であったので、シェーンベルクのこうした方法は非常に革新的であったと言える。
作曲者のイメージした音像を具体化するために新しい楽器編成を作り出す手法は、次作の「ピエロ」でも使われるが、ここではさらに新しいアイデアが取り入れられている。
この作品の器楽部分の楽器編成はフルート(ピッコロ持ち替え)、クラリネット(バス・クラリネット持ち替え)、ヴァイオリン(ヴィオラ持ち替え)、チェロ、ピアノであり、決して当時一般的なありふれた楽器編成であったとは言えないにしても、管楽器と弦楽器が共に含まれていることなどから一種の小オーケストラの観を呈しているので、この楽器編成自体は飛び抜けて革新的である訳でもない。
この作品の楽器編成における革新的な点は、小品ごとに楽器編成を変えている点である。後半の曲で若干の例外があるが、基本的に全ての曲では楽器編成がことごとく異なっている。
このことによって、それぞれの曲が音色、音域において独自の特徴を持つことができるので、それぞれの曲を全く独自の特徴を持つ音響オブジェとして併置し、次々と音色が万華鏡のように変わる幻想的なムードを作ることに成功している。
こうした革新的なアイデアは、弟子のヴェーベルン、ラヴェル、ストラヴィンスキーなどの同時代の作曲者だけでなく、メシアン、ブレーズの世代までにもその影響を及ぼした。
作曲者の求める音色を実現させるために、変則的で新しい楽器編成を作り出し、さらに曲ごとにその楽器編成を変えることによってその曲の音響の独自性を強調し、全体としての音色の多様性を得るという「ピエロ」の重要な特徴は続く作品「4つのオーケストラ歌曲作品22」にも応用され、各曲で全く前例のない「異様」ともいえるアンバランスな楽器編成が要求されているが、この手法に限って言えば「ピエロ」ほどには成功していないように思う。
もちろんこの作品にも特殊な楽器編成ならではの独特な音色の効果をあげている部分も多いのだが、対象が大人数のオーケストラだけに音色のコントラストが付きにくく、この点では「ピエロ」での小編成の方が有利だと感じる。
もっともこの作品では多彩な音色の変化を狙っているというよりは非常に微妙な音色のニュアンスを求めている部分も多いし、12音技法に繋がる独特なモチーフ操作にも作曲上の大きな関心が置かれているので(この傾向は「ピエロ」の一部にもその胚芽が認められる)、音響の面だけで「ピエロ」と単純に比較することに大きな意味がないとも言えるが、12音技法を生み出してからは、純粋に音響オブジェとして音色を操作することよりも12音列の操作の方に作曲上の関心が移ってしまうことから、この作品22の歌曲集は「音響オブジェ」から12音技法という「音程オブジェ」へのシェーンベルクの関心のシフトを捉えた、過渡的ではあるが非常に興味深い一例であると認識してみることによって、この作品の魅力を再発見出来るかもしれない。
